新・じゃのめ見聞録  No.8

   「ならぬことはならぬ」という
 二重の否定を越えてゆくために

2012.12.15


 会津藩の武士の子どもへの教え「什(じゅう)の掟」の最後に「ならぬものはならぬものです」がある。この「什の掟」が、どこかの現代の小学校にも掲げてあるらしい。それというのも、この「什の掟」は次のようになっていて、五つ目が「いじめ」をなくす現代の運動に関係すると思われているからだという。

 一つ、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。

 二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。

 三つ、虚言を言うことはなりませぬ。

 四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。

 五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ。

 六つ、戸外でものを食べてはなりませぬ。

 七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。 

    ならぬものはならぬものです

 ベストセラーになった藤原正彦『国家の品格』新潮社2005にも引用され、持ち上げられているのだが、彼はその理由を次のように書いていた。

 「武士道精神に深く帰依(きえ)している私には非常に納得できるものです。七つ目を除いて。(略)要するにこれは<問答無用><いけないことはいけない>と言っている。これが最も重要です。すべてを論理で説明しようとすることはできない。だからこそ、<ならぬものはならぬ>と、価値観を押しつけたのです。本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。頭ごなしに押しつけてよい。」

  引用するのも恥ずかしいが、そういうことを藤原は言っている。確信的に、大まじめに言っているので、議論の余地のない語りになっているのだが、それは、藤原の言い分のなかに自分も「武士道精神に深く帰依している」からわかる、という一行によく現れている。確かにそうなのである。この「什の掟」は、「武士の教え」なのである。そのことを踏まえている藤原は、それはそれで確信的な肯定ををするのは当然なのであろう。しかし、どこかの小学校がいじめの対策に、と思ってこの什の掟」を教室に貼り付けたりしているのだとしたら、そこは大事なところを間違えていると私は思う。

  「武士道」については、もちろん新渡戸稲造『武士道』も踏まえて好意的に考察されていいと思う。ただここでは「武士道」と呼ばれてきた精神的な「道」のことではなく、実体としての徳川時代の士農工商に分けられた「身分制度としての武士」のことを念頭において私は考える。こうした不平等な身分制度の中の「武士」という階層の中だけで通用するのが「什の掟」だからである。それを勘違いして、現代の小学校で、「みんな=万民」に通用するかのような「掟」のように什の掟」を受け止めると、歴史を間違って理解してしまうことになる。ここでの「什」とは、中国で生まれた「10人」ほどを束に「掟」を守らせる共同責任、団体行動の考え方から来ている。『広辞苑』にも「什」は「軍隊で十人一組の編成単位。隣組編成の単位である十家」と説明されている。「什の掟」という字の形も、人に十がくっついた文字形になっている。こうした10人単位で守り会う「掟」は、グループの結束をはかり、そこから抜けることも許されない強い拘束力を発揮することになる。

 会津藩の示したこの什の掟」が、もし「子どもみんな」に通用するものだとしたら、この「五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ。」の「弱いもの」というのは、どう受け止めることになるだろうか。身分制度的には最も「弱いもの」は「百姓」である。あるいは「百姓」以下に定められている人びとである。そういう「弱いもの」を本当に「いじめ」てはいけないのだとしたら、そもそも徳川の幕藩体制を支える「士農工商」の身分制度そのもの否定してゆくように思考回路を作らなければならないはずである。しかし、身分制度的に「弱いもの」を肯定しておきながら、「弱いものをいじめてはなりませぬ」というとしたら、おかしなことになってくる。「弱いもの」を作ること自体が「弱いものいじめ」になっているはずなのに、その制度そのものは温存させて「弱いものいじめ」をするなという。ここには「みんな」のことを考えての「弱いもの対策」ではなく、「武士」という特権階級だけで通用する「強いものー弱いもの」の違いを問題にする発想があるだけなのである。

  新島襄が徳川幕府から脱出してゆくのは、こうした「武士」という身分制度の存在する社会からの脱出であり、その結果、武士の魂となる「刀」を途中で売るのである。新島襄の方向は、そういう意味で身分社会の否定であり、それは会津藩の求めるような「什の掟」の否定であったはずである。あるいは、本当に「弱いものをいじめてはなりませぬ」を貫くと、こうした身分社会そのものを否定する方向に向かわざるを得なくなるのである。ところが、今回、こんな「武士の掟」が、女子大のお薦めの冊子に堂々と刷られて配付されているのをみると、新島襄の方向と、この「武士の掟」との兼ね合いはどうなっているのだろうと思わないわけにはゆかない。

  もちろん、そんなに目くじらを立てることもないのではないか、と言われるかもしれない。「ならぬことはならぬのです」を何も「武士の掟」などと堅苦しくとらえなくても良いではないか。軽く、一般的に、好意的に受け止めても、差し支えないのではないか、と。藤原正彦のように、子どもは理屈では分からないときがあるのだから、無理やりに「掟」を守らせるときがあっていいのだという考えにも、一理あるのではないか、と。

 もし百歩譲って、そういうことも考え得るとして、では19歳も20歳にもなった女子大生に、「ならぬことはならぬのです」というのはいったいどういう理由によることになるのだろうか。考えられることは、藤原のように、女子大生も理屈の分からない子どもなんだから、むりやりにでもいいから、「ならぬことはならぬのです」ということを教えるべきだと考えることである。しかし、いい年をした女子大生に「ならぬことはならぬのです」という家父長的な決め事を押しつけるようなキャッチフレーズを、どうしてお薦めすることが出来るだろうか。むしろ、女子大では、世界の女性たちが、この「ならぬことはならぬ」の論理の元にいかに拘束され、女性自身の地位や発言権を奪われてきたか、それを学んできたはずではなかったのか。そんな女子大で、またもやこういう「ならぬことはならぬ」を掲げて、女子大生にどういう説明をしようというのだろうか。

  ここで少し「ならぬことはならぬ」の論理を見ておくことにする。まず、「ならぬことはならぬ」の言い回しの最初の「ならぬ」について。当然ながら、ここにはまず何かについて「ならぬ」という禁止や否定の判断をする者がいる。その最初の禁止や否定の判断を受けて、それをそのまま追従して、さらに「ならぬ」と否定の判断を肯定するのが、「ならぬものはならぬのです」という二重の否定の判断をするものである。問題は、だから最初の否定判断の中身による。この最初の否定判断が正しい判断であれば、続けて追認するものの否定判断も正しいものになるであろう。しかし、最初の否定判断が間違っておれば、それを追従し、追認する否定判断は間違ったものになる。当然のことであるが。

 そうなると、どういうことを考えないといけないことになるのかということになる。それは間違った先行者の判断に、いかにしたら間違って追従、追認しないでもすむのか、という思考法を立てることである。その思考法は、「ならぬ」の後にただちに「ならぬ」を持ち出すような思考をするのではなく、「ならぬ」のあとに、なぜそれが「ならぬ」なのか、その理由を尋ねる思考法を学ぶことである。つまり、「ならぬことはならぬ」のではなく、「ならぬことーは本当にならぬことなのか、本当にならぬことならー私もならぬを認める」という「否定ー見直しー再認」の過程にならないといけないのではないか。私はそう考える。しかしそこで「ならぬものはならぬ」といってしまうと、途中の「見直し」の過程が飛んでしまい、最初の「否定」の判断を、間違っていようがそのまま「容認」することになる。そういう思考法を取りなさいと女子大は学生に決して教えているわけではない。

  結局こうした「ならぬことはならぬ」という盲従の思考法が、会津戦争の城下町で、歴史上まれな、自分の家族を殺す集団自決という惨劇を生むことになる。そういう判断をするに至る過程に、この「見直し」を許さない「ならぬものはならぬ」の「武士の掟」があり、そういう思考法を女子大が「盲従」しているかのような誤解を与えるあの冊子の帯は、早めに改めて頂きたいと私は思う。

  なお、この会津固有の「ならぬことはならぬ」に思考法を、会津から乗り越えていった人たちはいないのかどうかが、これからの女子大生の勉強のしどころである。そういう人は何人もいたのである。その一人に八重の兄、山本覚馬がいた。この巨大な交渉人については、女子大はもっと学習し、その思考する交渉力のスケールの大きさについてはもっと深く共有しなければならないであろう。彼がいなければ、その後の新島襄はあり得なかったはずし、その妻・八重もあり得なかったはずだからである。